戦後、どのくらいの不況が起きたのかご存知ですか? ——日本の主な景気の波

「どん底」から戦後は始まった

1945年、日本国民にとっては15年続いた「戦争の時代」が終結しました。それはどん底からのスタートでした。
同年の鉱工業生産額は戦前の3分の1、米総収量は587万トンと記録的凶作でした。不況どころではなく、ハイパーインフレが国民の生活を苦しめ、1949年までの4年間に小売物価指数は79倍にもなりました。
1946年には、流通していた日銀券(旧円)の使用を禁止して、金融機関の預金を封鎖、新しい日銀券(新円)による引き出しを、毎月一定額だけ認めることで流通量を減らそうとしましたが、効果は一時的でした。
そのような状態の日本経済に大きな転機が訪れます。1950年に起きた朝鮮戦争は日本の産業界に特需をもたらしました。

神武景気、なべ底不況、岩戸景気、五輪景気、証券不況

1951年、サンフランシスコ講和条約の締結で連合国による日本の占領統治が終わりました。1955年から1957年にかけて神武景気となりました。「もはや戦後ではない」という有名なフレーズは1956年の経済白書の一文です。その後、一転して「なべ底不況」となります。外貨準備が20億ドルしかなかったことが主因です。1958年から1961年にかけて「岩戸景気」が訪れます。重化学工業が発展し、いよいよ大量生産、大量消費の時代が日本にも到来したのでした。そうした中、1960年に池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出しました。一時的に軽い不況も起きましたが、物価は上昇しました。
東京五輪が開催されたのは1964年です。開催に向けて交通網の整備や競技施設の建設が急ピッチで行われました。東海道新幹線、首都高速道路、国立競技場などが建設されたのが五輪景気です。その後、五輪景気の反動で需要が落ちた1965年の深刻な不況は、「(昭和)40年不況」とも「証券不況」とも呼ばれています。山陽特殊製鋼が当時最悪の負債総額500億円で倒産しました。また、赤字になった山一証券を救うために日銀特融(無利子、無担保、無制限の日銀特別融資)が決まり、政府は1966年に戦後初の赤字国債を発行しました。

高度経済成長、いざなぎ景気、オイルショック

五輪をきっかけに3C(自動車、冷房、カラーテレビ)が流行、国民の所得水準は上がりその需要が景気を底上げします。ベトナム戦争による特需もあって、日本は世界第2位の経済大国となりました。70年にかけての時期は「いざなぎ景気」と言われ、1955年〜1973年を高度経済成長期と呼びます。
1968年に竣工した東京・霞ヶ関ビル(高さ147メートル)は超高層ビル建設の先駆けです。地価が名目所得の伸びを上回り、多くの家庭が郊外に住まいを構えました。この頃から輸出が急増し、アメリカとの貿易摩擦が激しくなります。
1970年の大阪万博後の不景気で公定歩合は3度も引き下げられ、公共投資の効果は薄く住宅投資も落ち込んだままでした。1971年、アメリカが発表した円切り上げ(ニクソン・ショック)で貿易摩擦は一時的に収束したものの、1973年には第4次中東戦争が起きて原油価格が高騰、日本は戦後初の実質マイナス成長1.2%となります。高度経済成長は終わり、スタグフレーション(慢性的不況でインフレ)がしばしば起きるようになります。

為替が景気を左右する時代と日本列島改造

先進各国は1973年、変動相場制に移行します。スタグフレーションは先進国共通の悩みで、1975年から先進国首脳会議(サミット)が毎年開かれることになりました。各国の景気を為替が左右する時代の始まりでした。1972年に田中角栄総理が打ち出した「日本列島改造論」は、日本列島を高速道路で結ぶなど「夢よ、もう一度」の高度経済成長政策でした。候補地域で土地の買い占めが起きて地価が急上昇し、物価が上がりました。
不況脱出のため1975年から赤字国債発行が常態化します。企業は輸出へシフトし、1978年の第2次オイルショックをうまく受け止め、日本企業の適応力を見せつけました。俳優出身で強いアメリカの体現者、ロナルド・レーガンが1980年に大統領に就任すると、「レーガノミクス」と呼ばれるサプライサイド理論に基づく経済政策を実施、インフレ退治にために厳しい金融引き締めを行うと金利は2桁に達し、世界中の通貨はアメリカに集まりドル高(円安)になります。

バブル景気とその崩壊

1985年、先進各国はニクソン・ショックの再発を怖れ、協調的なドル安誘導で合意(プラザ合意)します。1ドル=235円が1986年には120円台になりました。1986年〜1991年をバブル景気と呼びます。
1981年発足の中曽根康弘内閣は、当時「三公社」と呼ばれていたJR、NTT、JTの民営化を実施、社会保障費削減と公共事業拡大を打ち出して、超低金利策と大幅減税を行います。「土地は必ず値上がりする」という土地神話が生まれました。三菱地所が1989年、ニューヨークの象徴・ロックフェラーセンターを買収したことで「日本脅威論」も叫ばれました。

戦後最長の不況の到来

バブル経済下では、資産価値上昇が困難と分かった瞬間、地価、株価は一気に下落します。
1989年から日銀の6度の公定歩合引き上げ、政府による土地関連融資の総量規制がきっかけとなり、日経平均株価は3万8,915円をピークに暴落、地価も下がり土地を担保にした貸付は担保割れし、事業会社も銀行も経営が悪化しました。
1993年〜2002年の10年を「失われた10年」とも、「平成不況」とも呼びます。過去のような「好不況の繰り返し」とは様相が一変したという指摘もあります。
1995年頃から20近い銀行や証券会社が破綻する一方で、貸し渋り(健全な企業に対して新たな融資を拒否)、貸しはがし(既存の融資を強引に引き上げ)が頻発、景気悪化が加速しました。優良企業は有利子負債を圧縮し、財務基盤の強い企業群が形成される一方で、採用を削減したため1970年代生まれは深刻な就職難に直面しました。「就職氷河期」と呼ばれる時代です。非正規雇用が増加しました。

名前のない景気回復期と世界金融危機

日本銀行は、1999年~2000年に政策目標金利を実質ゼロに下げるゼロ金利政策を、2001年から5年間に量的緩和政策を取りました。小泉純一郎内閣は2001年発足後規制緩和を打ち出し、2002年から2007年にかけては円安とアメリカ経済の好調さで「いざなぎ超え」とも呼ばれる景気回復の期待もありました。しかし、バブル崩壊前の成長率水準に戻ることはなく、2007年にアメリカのサブプライムローン(信用度の低い人向けの住宅ローン)の延滞が表面化、アメリカの住宅バブルが崩壊すると、2008年にはアメリカの名門投資銀行であるリーマン・ブラザーズが負債総額64兆円という史上最大規模で倒産し、世界は金融危機に陥りました。日経平均株価は7,000円台にまで落ち込みました。

アベノミクスと不況克服

2012年に発足した安倍晋三内閣は「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を実施しました。中でも日銀の金融緩和政策でデフレ脱却を試みています。そうした効果から、日経平均株価は2015年夏に一時2万円台を回復しました。
しかし構造改革は手つかずのままで、日銀が目指した2%の消費者物価上昇の目標時期は4度にわたり先送りされています。専門家の中には、金融緩和による景気の浮揚効果の「限界」が明らかになったと指摘する人もいます。

まとめ

経済活動が活発なのを「好況」、停滞しているのを「不況」と呼びます。好況、不況を繰り返してきた日本経済の戦後から今日までを、景気の動向を軸に振り返りってきました。
さまざまな要因で景気は変化していきます。どの時代に不動産はどのようになっていたのか、景気と不動産の関係性や、地域の特徴などを調べてみると、新たな発見があるかもしれません。